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住まいの源流を訪ねてアジアへ
◆ ブータン=ヒマラヤにこだまする娘たちの歌声と槌音 ◆
(文・写真 松下寛光)
ブータン建築の象徴「タシチョ・ゾン」
はじめに
私が日本人にとって、ほとんど馴染みのない国といえるブータンを訪れたのは、1990年の5月であった。その目的は“木造建築の源流”を探ってみたいと思ったことと、広くアジア地域の住まいや暮らしについて知ってみたいという欲求が体の芯から、ムラムラと沸きあがるのを抑えることができなかったからである。
その欲求は、現代の日本が良くも悪くもどっぶりと欧米文化に浸っているなかで、アジアの一員である我々日本人の住まいに対する精神的な拠り所は何なのかという素朴な疑間であり、アイデンティティーを求めた旅に出たかったということであったかもしれない。
それともうひとつ私に勇気を与えてくれたのは、「エスノ・アーキテクチャア」であった。このエスノ・アーキテクチャアとは民族学(エスノロジー)と建築(アーキテクチャア)を融合させた造語であり、東洋大学・建築学科の太田邦夫教授が提唱している学間領域である。
テクノロジーばかりが優先される現代の建築からいったん離れて、民族学的見地から人間の住生活や技術・技能の発連をみることで、文化の主役である建築のあり方を追求していこうというものである。
我々は西洋合理主義の考えを取り入れたことで、科学技術や建築技術は年々進歩すると疑うことがなくなり、現在もその延長線上にある。しかし、環境間題に代表されるように自然と科学技術を対峙させざるを得なくなると、多くの矛盾が生じてくる。いろいろな矛盾の解決策を考えるときテクノロジーなど無いも同然と思われていたエスノ・アーキテクチャアの世界から、資源保護の技術の伝承に気を配った独自の運用が見えてくる。
私はこうした観点に立って、ブータンを皮切りに中国の奥地へとこれまで旅を統けてきた。まずはブータンである。
ブータンはいまだに未知の国
ブータンへは友人のフリーライターOとの二人旅であった。成田からまずインドのニューデリーに向かった。5月の連休ということもあり、機内にはインド旅行に出かける日本人の旅行者も数多く見かけられた。たまたま臨席になった20代の女性はインドへは今回が3度目であり、一人旅でこれまでに訪れることができなかった街を回って来るという。
「まだ、うら若き女性が一人でインドをうろうろして大丈夫なのだろうか」と心配になったが、こちらがインドの事情をまったく知らないのに、そんな心配をするのもおかしなもので、何となく女ひとりインド旅という構図は危険という先入観があったためだろう。インドの魅カに取りつかれると病み付きになるというが、この女性もそのひとりのようだ。
我々がブータンに行くと話したら、「えっ、ブータンに入ることが出来るんですか?」とさかんに羨ましがられた。インド通のこの女性にしてこうなのでるから、ブータンはまだまだ未知の国である。私は事前にブータンに関するる旅行記をはじめ数冊の書物を読んでいたが、情報そのものが少ないこともあって、それはど多くの知識を持っていたわけではない。
ブータンはヒマラヤ山脈の南麓に位置する小国である。日本との共通項といえるのは、両国とも照葉樹林帯に分布しており、日本が東の端でありブータンは西の端に位置している。この照葉樹休帯には常緑樹のカシ、シイ、クスを主体とした森林があり、多くの共通した文化がみられる。
この常緑広葉樹が広がる地域に共通の文化の帯が統いているのを、最初に指摘したのが民族学者中尾佐助氏(大阪府立大学名誉教授)である。養蚕、漆、竹細工、紙づくりなどのほか、食べ物ではソバ、米、麹による酒といったものがブータンと日本では共通している。
凝縮するとこの程度であり、建築に関するものは皆無に等しい。あとは敬虔な仏教徒の国であり、独自の文化を大切にし、ほぼ自給自足に近い経済を保っている。この他には雨期の山中には20cmもあるヒルがうようよしているという記述もあったように思う。
いずれにしても、私もOもあまりよく分からないという点に大いなる魅力を感じていたことは碓かである。
ニューデリーで一泊し、早朝ブータン国営ドゥルック・エアでブータン第二の都市パロに飛ぶ。途中ちょっとしたトラブルがあった。ニューデリー空港の出国管理官が隣のOに向かって、わけの分からない英語でまくし立てている。何事かと思ったら出国カードの書き方が違っているという事らしい、訂正すれば済むことである。が、その管理官は訂正したカードをしげしげと眺めながら、「ところで、タバコを持っているか」という。Oは戸惑いながらもマイルドセブンを出すと、管理官はおもむろに取り上げ自分の胸のポケットに入れ、ニタッと笑って通ってよしと合図をした。
どうやら、はじめっからタバコを巻きあげる魂胆であったらしい。我々も甘くみられたものだ。この時、咋日の夜別れたうら若き女性がインドでどの様な旅をしているのだろうかと気になった。
ドゥルック・エアの飛行機は80人乗りの小型ではあるが新鋭のハイテク・ジェットで実に快適。昼過ぎに谷間に切り開かれたパロ空港に到着した。
タラップに足を掛けると心地よい爽やかな風が体を包み気持ちがいい。ニューデリーが40℃近い灼熱であっただけに、山の緑と風は千金に価する思いだ。パロは標高2400m程でありインドとの高度の差がこれはどまでに気候に影響するものかとつくづく感じた。
ニューデリーの出国と違い、ブータンへの入国はいたってなごやかなものである。ここが、いちおう国際空港ということになるが、建物は木造平屋建てで、日本のひと昔前の停車場といった風情だ。入国審査官はとても役人とは思えない人なつっこい笑顔で、世間話しでもするように簡単な質間をしながらパスポートをチェックするだけである。
先客のヨーロッパ人に対して、「やあー、また来たのかい。1年ぶりかねえー!今回は何日いられるんだ。OK、OKじやあ、気をつけて」といった案配で進んでいく。我々の番がきて、「二人ともこの国は初めてかい!いまが一番いい季節だ。旅を楽しんで…、ハイ次の方」。建物の外に出るとカルマ氏(カルマ・ジャンツー、我々のガイドで25歳の好青年)が待っていてくれた。
職人は恥ずかしがりや
カルマには事前に我々がブータンの建築を取材したい旨伝えてあつたこともあり、昼食後さつそくトヨタのライトバンで建築現場に赴いた。
ブータンの民家が基本的には土壁と木による自然素材で構成されるが、最近ではインドからレンガ、セメント、トタン、クギといった材科が輸入されるようになってきている。まずは自然素材による伝統的な民家からみていくことにしょう。訪れた民家は首都ティンプーに向かう道路沿いで建築中であった。
我々がカメラをぶら下げて現場に近づいて行くと、下小屋で作業をしていた大工達がいっせいに、いぶかしげな視線を投げかけてきた。私は現地の言葉はまったく分からないし、一瞬どうしたものかと戸惑っていたら、カルマが後から追いついてきて、来意の主旨を伝えてくれた。彼らは「何と物好きに…」といった表情で照れたような笑いを浮かべた。その表情に安心したのであるが、どこの国の職人も知らない人間に対しては恥ずかしがりやで、無口のようだ。
それでも、カマルに促されて作業手順や道具の使い方などを嫌がらずに身振り、手振りで演じてくれた。こうした過程のなかで、まず感激したのは日本の大工と同じようなやり方で、ミゾ、ホゾを基本とする軸組が紛れもなくここで行われているということであった。
木組みにあたってはクギなどの金物は使われないのが基本であるが、最近ではインドからクギが入ってきているので、補強などには用いられている。
木材は豊富に産出されるマツで、針葉が5本づつ一束になった五葉松である。このマツは「ヒマラヤゴヨウ」と呼ばれており、松かさが非常に大きく30cmにもなる。私はそこまで大きなものは見なかったが20cm程度のものはゴロゴロしていた。柱、横架材として使われる製材はわが国の木造住宅の感覚からすると相当太く、12〜15cm角(4寸〜5寸)のものがふんだんに用いられている。
山間の風景に溶け込む民家
一般的にブータンの民家は日本に比べて立派で大きい。2階建てもあるが3階建ても目立つ。1階の外壁全面と2階の一部が土壁造で他の部分が木造というのが基本的なスタイルとなっている。住まい方は一階部分が家畜のねぐらと穀物を保存しておく倉庫、2階3階が台所・寝室・仏間など住人の居住スペース、小屋裏には干し肉などの食料乾燥スペースとして使われている。
屋根は板葺きで上に人の頭くらいの石を置いた石置屋根である。木造部分の壁はわが国の土壁と同様に竹で編んだ木舞の上に練った土を塗り込んだ真壁造になっている。壁は漆喰で白く仕上げられ、木部には緻密なタシ・タゲという彩色模様が描かれ、白い壁と調和して実に美しい。
これらがブータンの典型的な農家の造りである。ブータン国民の80%が農民であるから、車で移動していても統一されたデザインの家が、まわりの風景に溶け込み落ちついた雰囲気を醸しだしている。
我々が最初に見た現場は谷間に建設中の民家で、日常雑貨類をすべて扱う店舖もかねたものだと、ガイドのカルマはいう。規模的には相当大きな2階建てで、延べ床面積200u近くはあるだろう。店舖付住居といってもシヨーウィンドーがあるわけではないので、造りはまったく農家と同じである。はじめ不意の珍客に戸惑いの様子をみせていた大工達もしだいに馴れてきて、それぞれの仕事に戻った。作業はかつて日本の大工もそうであったように、カンナがけ以外ははとんど座して行われる。また、彼らの服装はゴーといわれる丹前に似た着物であるため、とてもなつかしく親しみを感じないわけにはいかなかった。
道具はいたって素朴なもので、ノコ、ノミ、カンナの他にドズムというバン刀である。ノコとカンナは押して使われる。こうした素朴な道具だけで木工事をするためであろう。ミゾ、ホゾの継ぎ手はそれほど精密で様式化されていない。躯体に関してはは強度が保てれば良いという考えのようだ。というのは、建物の柱などに施される木彫や彩色模様には多大なエネルギーを注ぎ込んでいるのに比ベ、あまりにも簡素化されているからである。


私とOは彼らの仕事ぶり、道具、建物のディテールなどにカメラを向けて所かまわずシャッターを押し統けていた。我々のそうした姿をみて、カルマは「日本に帰って、ブータン様式の家でも建てるのか?」と呆れ顔である。
それでも、カルマは他の観光客がはとんど興味を示さない家づくりに関心を持ってくれたことに対して嬉しそうであった。「最近はセメント、レンガ、トタンなどの新しい建築材料が輸入されるようになり、都市部の家づくりに使われるようになっている」と話す。
30年程前まで鎖国をしていたブータンであるが、徐々に近代化が進んでいる。首都ティンブーにはそうした新建材を導入した近代的な建物もチラホラ出現しているのもみた。しかし、いま私にとって、興味の対象はブータンの伝統杓な建物なのである。
壮大さに圧倒される「ゾン」
伝統的な建築物で象徴的なのが各地にある「ゾン」で、ゾンは日本の“城”を想像してもらうと解りやすい。各地の行政庁であり僧院でもある。そうしたゾンのなかで最も権威のあるものが、首都ティンブーの「タシチョ・ゾン」だ。タシチョ・ゾンは国会議事堂であり、ブータン仏教の総本山でもある。
タシチョ・ゾンの前に立って見上げた第一印象は、威厳に満ちた壮大さである。外国人がゾンの内部に入ることが出来る日は限られており、よほどチャンスに恵まれないと願いがかなわないということであったが、我々は強運なことに入ることが許された。カルマは入城する段になって、白い帯状の布を取り出して肩にかけた。この布は「カムニ」といわれるもので、ゾンへ入る時と、国王や高僧に拝謁する時に付けなければならないのだという。
カムニは身分階級によって色が違い、国王と宗教界の最高権威ジェ・ケンポは黄色、大臣は濃い赤、ダジョーといわれる副大臣以上クラスの官僚は赤、村長は赤白、一般庶民は白と身分によって細かく分かれている。ガイドのカルマは一般庶民であるため白のカムニをかけたのである。
ブータン人は民族衣装の着用が義務付けられているため、カルマの服装はいつもゴーにハイソックスで靴はスニーカーである。このいでたちにカムニを肩にかけると、そうしたしきたりを知らない我々からみても、どことなくキリリと引き締まった感じに見えるから不思議である。
カルマの緊張が私やOにも伝わり、3人とも意を正して入口の階段を踏みしめたのであった。数段あがったところに軍服姿の近衛兵が鉄砲を持って立っていた。「さすがに最高権威の建物だけある」とさらに緊張度が増したのであるが、その近衛兵は鉄砲に体を預けて眠っていたのである。彼は我々に気づきちょっと照れ笑いをして背筋を仲ばした。回りには我々3人以外に人影はなく、彼としては仕事とはいえ退屈しきっていたのだろう。私の緊張も彼のおかげで消え去り、ブータンという国は平和なんだとつくづく感じ入り、この国がますます好きになつてしまつた。
中庭から見上げたゾンは外部から見るよりも、さらに圧倒される存在感であり、私はその壮大さに感服してしまった。5階建てほどの高さで、石、土、木材という自然素材だけで構築されている。
タシチヨ・ゾンに限らず、各地のゾンも規模の違いはあるものの、すべて一定の建築様式によって建設されている。外壁は自然石と土とで厚く組み上げられ、漆喰で白く仕上げられる。外壁をくり抜くように開けられた開口部回りと最上階、屋根は木造である。建築にあたっては、クギなど金物はいっさい使用されていない。それどころか、設計図さえなしに建てられたという。
壮大なゾンを目の当たりにして、カルマからそのように説明されても驚ぐばかりであったが、そのようなことが可能なのは遥か昔から世代から世代へと受け継がれる碓かな伝統技術と技能が生きていたということであろう。
Oと私はしばらく言葉もなく見とれていたが、「日本の大型建築物である、社寺建築もかつてはクギなど使わないで、棟梁の腕の枠を結集して建てられていたよね」
「うん!板に間取りを画だけで、特別子細な設計図なんかもなしで建てられていたんだ」 「棟梁の腕のなかに、設計図が埋め込まれていたんだろうね。それが修行という伝承によって受け継がれていったんだ」
「そうだよね。このゾンもそうしたかたちで技術なり技能が守られてきたんだろうね」 「そす考えると感慨深いものがあるね」
――と、とりとめのない会話をしながら、木造建築の源流はどこにあるのだろうかという思いを強くしていた。
憧れの酒、チャンとの出合い
何日間かに渡ってティンプー、パロを中心に民家、ゾン、博物館、絵師の養成学校などを見学し、標高3000mの断崖絶壁に建つ、ブータンで最も有名な聖地タクツァン僧院にも足を伸ばして過ごした。私はその間に絶えず気になっていたことがひとつあった。それは、ぜひ「チャン」という地酒を飲んでみたかったのである。チャンにはなかなか出合うことができなかった。ホテルにもティンプーの商店街にもない。カルマにも何度か話したが要領を得ない。
チャンは日本でいうドブロクで、米、麦などを原科にし麹で醗酵させた酒だ。こうした麹醗酵の酒は照葉樹林文化に共通するものである。私としてはチャンを媒介に体の中で日本とブータンをブレンドしてみたかった。そのうち、どうやらチャンは商品として出回っているようなものではなく、自家消費用に各家庭で作って飲むものだということが解ってきた。よく考えてみれば、日本でもにごり酒は売っているがドブロクはそう簡単に手に入れることはできないわけで、半ばあきらめていたころ偶然にもチャンの方から私を呼んでくれた。
帰国しなければならない前日、最後の建設現場を訪れた時のことである。時間的は3時ころであったろうか。職人達が手を休めて休憩に入った。このとき施主と思える奥さん風の女性が、職人に何かを注いでまわている。
「もしかしたら…」と咄嗟にひらめいた。まさしくそれはチャンであり、我々もごちそうになった。Oは「酸昧が強すぎる」といって、一口飲んだだけであったが、私はカルマと酒談義をしながら、2杯、3杯と飲みごきげんであった。
ストロングな土壁
これまでブータンの民家をはじめ、伝統灼な建築物は厚い土壁と木造で構成されていることは何度か触れてきたし、今でも受け継がれている。わが国においても土蔵造りに代表されるように、土壁の歴史は古いわけであるが、現在ではすっかり過去の“遺物”的な存在になってしまった。
それでも、環境間題が台頭してきて「地球と人にやさしい」がキャッチフレーズになってから、再び土蔵を再評価してみようではないかという気運が高まっている。土壁の土はまったくの自然材料だから地球には当然やさしい、また湿度を微妙にコントロールし保温性も高いから人にもやさしい材料である。こうしたことは分かっていても工業化の波に呑まれて消えてしまった。
それはともかく、ブータンの土壁は単なる壁としてだけでなく耐力壁としての役割も担っているので、民家の場合で幅75cm程の厚さになる。この厚い土壁を作るというか、施工するのは女性である。それも若い娘たちの役割になっている。
土壁の作り方は版築工法といわれるものであるが、木の型枠の中に水で練った赤っぽい土を入れ棒で搗いていく。水で練る時に五葉松の葉をつなぎに混ぜる。これはわが国の土壁にワラを練り込むのと同様、強度を増すためのものである。

ガイドのカルマはこの作業を見ていた私に対して「ストロング」と説明する。確かにストロングになるには違いないが、現場の状況とあまりにもかけ離れているように思えてつい笑ってしまった。ちなみに、ブータンのガイドで日本語ができる者はいなく、すべて英語である。だからたどたどしい英会話しかできない我々はいつもカルマを困らせていたのである。それでもカルマは嫌がらずやさしい言葉に置き換えて、何度も説明してくれるのであった。最後まで見放さないで付き合ってくれた誠実さに、我々は今でも感謝してるほどである。
ブータンの子供たちは6歳から小学校に通うが、授業はすべて英語で行われる。日常はゾンカというブータン語が使われているが、年配者は別として教育を受けている子供や若者はみんな英語ができるのである。
話がそれてしまったが、型枠に土を入れたところから娘たちの出番だ。数人で枠の中の土を硬い棒で搗く。この時に素朴なメロディーの唄をうたいながら作業が進められる。この唄が何ともいえない響きで、空中に舞い、ヒマラヤの山裾に消えていく。この単調な調べによってまわりの空気が清められていくような、何とも不思譲な響きを感じた。わが国にも鳶や大工がうたう木遣りがあるが、似ているようでいてまた違ったものである。風の音のように天と地との間から湧きでてくるような唄である。
娘たちは近所から家づくりの手伝いにきており、労働者として働いているわけではない。ブータンではかつての日本の農村がそうであったように、近隣との相互協力によって家づくりが進められる。
ところで、世界最古の木造建築物である法隆寺であるが、法隆寺の造営にも版築の技術が活かされている。それは粘りのある土を搗き固めて基壇という基礎石を受ける頑丈な地盤をつくる必要があった。この技術は寺院建築とともに朝鮮半島を経て伝えられたものであるが、ここでも土を搗くのは女たちの仕事だったといわれている。男が力まかせに強い力で搗くよりも、女の力のはうが土のなかの空気が徐々に抜けて、強固になるからである。
我々はブータンと日本が中国大陸をはさんで、底流で結びついているものがあるに違いないと思いを巡らすのであつた。
笑顔で迎えてくれた民家の奥さん
家づくりの過程を知ると、次に人々の暮らしぶりをみてみたいということで、氏家を案内してもらうことにした。カルマが連れていってくれた家は、パロの郊外で水田地帯を抜けた所に建っていた。道すがらカルマがいうには「これから行く家はごく一般的な農家」だという。それは我々も望むところであり、事前に一般家庭にもぜひ訪間したいと伝えてあったのであるが、果たして物好きな外国人に家の中を見せてくれる家庭があるのだろうか心配していただけに期待もふくらんだ。
外から声をかけると、20代とおぼしき奥さんが赤ん坊を抱きながら2階の扉を開けて顔を出し、笑顔で迎えてくれた。
最初に訪れた大工達は一瞬ではあるが怪訝な表情で迎えられただけに、奥さんの笑顔が嬉しかった。だが、これは旅行を通じて分かったことであるが、ブータン人は外国人に対しては非常に開放的であり、みんな親切だ。まず、人を疑ってかかるとか警戒する様子ははとんどないといえる。それは、ブータンの古代史ははとんど明らかになっていないのであるが、2000年にもおよぶ歴史のなかで他のアジア諸国と違って一度も外国に支配されたり、植民地になったことがないということと無関係ではなさそうだ。それだけにプライド持った寛容の気持ちが強いといえる。
この一家は夫婦と2歳位の男の子、赤ん坊、おばあさんの5人家族である。それに黒牛3頭、鶏数10羽、犬が同じ屋根の下に住んでいる。総2階建てで延べ床面積144uといったところである。1階は家畜が住むスペースであり、その横には種もみと農機具が保管してあった。
急な階段を登って居住スペースに上がらせてもらうことにした。扉から直ぐの所に大きなカマドが設置してあり台所だと分かる。だがこの瞬間、強烈な臭いが私の鼻を襲いほんの数秒ではあるが吐き気がした。これを表情に表してはカルマや家の人に悪いと、顔をそむけ必死でこらえた。私の後ろにいたOも同じ情況にあるらしいことが、見て取れた。
この臭いは何だろう。これまでにまったく体験したことのない臭いである。どんな悪臭であれ一度でも体験したことがあれば、覚悟さえ決めればひるむことはないだろうし、その自信はあった。この臭いは家の中に染みついた体臭とカマドから発する調味料などがミックスされたものであろう。未知の臭いだっただけに一瞬、眩暈に似た症状を起こしてしまったのである。だが、それほどの時間を必要とすることもなく馴れることができた。
台所に続いて食事をする居間があり、奥に寝室、空部屋、仏間という間取りで、日本風にいうなら4DKということになる。奥さんは他人に覗かれるのを嫌がる様子も見せず寝室も仏間にも我々が入ることを許してくれた。
仏間を除いて、各部屋に家具らしきものはほとんど無く、きわめて質素な暮らしぶりで、天井から下がっている裸電球が何かとてもいとおしいものに思えてしまった。国土の20%しか電気が普及していないことを考えると、この一家は夜も明るい生活をしているのだな、としみじみ納得できる。また、主人の寝室の枕元にはトランジスターラジオが置いてあった。テレビ放送はまだされていないのでラジオを聞いて仕事の疲れを癒しているのかもしれない。
ブータンの電カ事情はちょっと複雑だ。チュカというところに大きな水力発電所があるが、電力需要が少ないため余剰電力をインドに輸出しているほどなのである。また地方にも日本の無償資金援助で建設された小型水力発電所が10ヵ所ほどある。それなのに全国に電気が普及していないのは、人口が少ない(九州よりやや広い国土に約150万人しか住んでいない)ため遠く離れた小さな村に電線を敷設する費用が不足しているのか、また住民が必要性を感じていないのかもしれない。カルマによく聞いておくべきだった。
民家には風呂は設置されていない。タライのような桶に水を汲んで体を洗ってすませる。そのかわりおもしろい風習がある。それは「ドツォ」と呼ばれる露天風呂だ。これは人が一人ないし二人、しやがんで入れる位の穴を地面に堀り、その同りを板で囲って湯船を作る。この湯船に川から水を引く。焚き火で手頃な石を熱くなるまで焼いて、湯船に放り込むと、ジュジュツとゆけむりがあがり風呂が沸くという簡単なものである。人々はピクニック気分でドツォのある所に出かけ、ひと風呂浴びてから酒や弁当を広げて楽しむのである。
家づくりにしても暮らしぶりにしても、ブータンの人達は自然の流れに身をまかせるようにして生活している。つくづく日本の巷で叫ばれている“豊さ”とは何なのかを考えさせられた。世話のやける我々に最後まで付き今ってくれたカルマに感謝しつつブータンを後にした。
窓には緻密な模様が描かれている
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