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住まいの源流を訪ねてアジアへ
◆ 中国・貴州省=木の民といわれるトン族の木橋は世界一 ◆
(文・写真 松下寛光)
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“世界一”の木橋といわれる「程陽橋」。全長77.76m、屋根形状が異なる5つの橋亭が豪華である。 |
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これから紹介するのは、1991年の4月から5月にかけて訪れた中国・貴州省のトン族の村の話である。
成田を発ち、上海で一泊し貴州省の省都である貴陽に入った。省都の貴陽はほとんど雨の日が多く、太陽が貴重だということから由来しているというくらいで、三日続けて晴れる日はないという。だが、この雨は恵みももたらしている。貴州の山々は杉で被われているのであるが、降雨量の多いことが杉の成良を早め、18年くらいで成木になるため、「18年杉」といわれているくらいである。
ちょっとおもしろい話を聞いた。日本では桐の木の成長が早いことは知られている。娘が生まれると桐を植えて、やがて嫁ぐ時に嫁入り道具の箪笥にするという風習があった。木の民であるトン族も娘が生まれると杉を植え、結婚したときの家づくりに使用する風習が残っているという。
また、山を切り開いた棚田で稲作がされているが、これも毎日毎日適度に降る雨のおかげである。この柵田の規模であるが、この作業を人力で開墾したのであろうか、と思われるほど大規模だ。山の麓を車で走っている時は、窓から山を見上げても棚出の存在に気づかないことも多かったのであるが、山越えのために高度をを上げて山稜にさしかかったおりに、今登ってきた山全体が棚田であったことを知り驚嘆したものである。
私は車を停めてもらい、はるか麓まで連なる棚出を眺め、シャッターを切った。これはまさに、人間と自然との戦いの結晶といえるのではないだろうか。機械力に頼らないでひと山全体を棚田にするなど、今の日本では想像もできないことであろう。それでも、終戦直後の生まれである私はまだ、農作業のすべてを家畜と人力で作業していた時代を実感として覚えているだけに、並みの苦労でないことがヒシヒシと伝わってきた。
雨の中に霞む美しい棚田
三階建ての高床式住居
さて、こうした山深い所に自然と共生しながら暮らしている人々の住まいはどの様なものであろうか。今回の旅はミャオ族とトン族の村を中心に訪れたのであるが、多くの場合水のある谷間に集落を形成して住んでいる。
日本の村は自分の農地内に家を建てるため、家々は散在しているが、ミャオ族、トン族とも数十世帯が集中して村を形成している。それには、古くからの歴史的な背景があり、簡単に説明しておくと、両民族とももともとは貴州省に住んでいたのではなく、中国の東南や長江(揚子江)中流域に住み、稲作農耕民族として暮らしていたのである。それが漢民族の勢力拡大とともに迫害されるかたちで、貴州の山奥へと移住してきた歴史をもっている。したがって、外敵から村を守るために集中することになったようだ。また、そうしたこともあって、山の中に来ても稲作を拾てることなく、棚田を開墾して米を作っているのである。
彼らの家は一般的には木造3階建てで、わが国の住宅に比べて相当規模が大きい。高床式で釘など金物はいっさい使わずに、柱、貫、束で構成され、架構は穿闘(チュアンドウ)式と呼ばれるものである。小屋組はわが国の和小屋とは異なり、梁ではなくて貫と束を繰り返し組み上げていく手法が用いられている。屋根は、昔は杉の皮で葺いたのであるが、今ではどの村でも瓦が使われていた。
工法的には1階から3階までの通し柱を使った軸組工法であり、細かいディテールに違いや特徴があるものの、わが国の軸組工法と基本的には変わらないとみていい。
高床式の3階建てという点に関しては若干の説明がいる。山岳地の傾斜のきつい所に家を建てるため、山側と谷側とで一層分の段差になり、山側からみると2階建て、谷側からみると3階建てになる。1階部分で豚、牛、鶏などの家畜を飼い、2、3階が居住スペースと穀物を保存する収納庫である。
さらに、詳しくみていくと、ミャオ族とトン族の住まい方に違いがみられ、ミャオ族は土間様式を取っているため居住スペースの一部を一階に設けている。だが、トン族は店住スペースを完全に2階以上に取り、純粋な高床様式の住まい方をしている。これは高床式住居の歴史をたどるうえで、かなり興味深い点である。
傾斜地に建つトン族の民家
BC5000年に溯る千欄式住居
貴州省に住むミャオ族、トン族の住まいは木造3階建ての高床式である。ミャオ族は土間様式を取っているが、トン族は典型的な高床様式の居住形態であった。その違いは食ぺ物を煮炊きするカマドに象徴的にあらわれる。
かつてわが国のどの民家にもカマドがみられ、土間に設置されていた。カマドはその大きさ、重量、また火災の心配を考えるとどうしても土間に設置するしかない。
土間様式の習慣は人口の圧倒的多数を占める漢民族のものであるが、ミャオ族は漢民族の影響を受けて土間様式を導入したのだろう。しかし、トン族は高床様式を守っているため、カマドを持たず2階に設置した囲炉裏で煮炊きしている。囲炉裏はわが国のものとほば同じで石で枠を作り、五徳を置く。だが、カマドと囲炉裏は比較するまでもなく、使い勝手や火力はカマドの方が便利なことは明らかで、最近ではトン族も1階の土間や2階のウッパーと呼ばれるベランダに似た縁廊にカマドを設置している民家が増えているという。
高床式住居は中国では「千欄」というが、干欄式木造住居に住んでいるのは西南域の山岳地に住む少数民族が中心で、太古の時代には長江の中・下流域を中心に華南、西南地域にかけての広い範囲に普及していた。歴史的にみると干欄式木造住居はBC5000年頃にはあったといわれており、文化大革命以降の積極的な遺跡発掘により、河姆渡(ホームドウ)遺跡や羅家角(ルオジヤージャオ)遺跡から干欄式木造住居に使われた木材が出土したことで明らかになった。出土した建築部材は石器で加工したミゾ、ホゾが刻まれており、当時すでに相当高度な技術があったと推測されている。
高床式住居はこのように、気が遠くなるほどの伝統と歴史がある。この建築技術は稲作の渡来とともにわが国にも伝播し、独自の発展を遂げたとみることは十分可能であり、太古のロマンへと我々を運んでくれるのである。
村あげての酒と唄でのもてなし
どの村でも大変な歓迎を受けた。最初に訪れたのはミャオ族の郎徳村であったが、その入村の儀式は村あげてのものである。細い畦道の先に山門に似た村の入口があるのだが、そこへ行くまでに12脚の小さなテーブルが10mおきくらいに並べられ、酒の入った器が置かれている。テーブルの前には晴れ着で正装した娘さんが二人づつ立っており、我々が近づいていくと盃に注いだ酒を飲ませてくれるのである。
一方、土手の上では村の男たちがこれもまた民族衣装を着て、20人程並んで竹の楽器である蘆笙で盛りあげてくれる。
酒は土地の雑穀から造る焼酎で50度近くはあろうかと思われる強い酒である。貴州省は日本でも有名な茅台酒の産地であるが、これほど洗練されたものではなく独特の強い香りがする。とにかく娘さんがこの強い酒を注いだ盃を口もとまで差し出してくれ、我々は唇を近づけて飲むというか飲まされるのである。この時うっかり盃に手を伸ばして受け取ると、酒が飲める人とみなされテーブルに置かれている容器の酒をすべて飲まなければならないというから、迂闊に手を出すことはできないのである。
酒に関してはどんなものでも自信のある私であるが、関門12ヵ所を通過するのは大変であった。なかには水牛の角でできた大きな盃もあり、酒のまったくダメな人はとても入村できない。
村の中心にある石畳の広場で村の人達の唄と踊りを披露してもらった後、昼食をご馳走になったが、またまた例の焼酎と娘さんたちの陽気な歓声と即興唄でもてなしを受けた。
どの村にいっても同様な村あげての歓迎をされ、どのように返礼してよいものやら戸惑うばかりである。トン族の歓迎はミヤオ族とはまた異なり心温まるものであった。こちらは酒ではなくて唄攻めといえる。唄で攻められるというのも奇妙な話であるが、トン族の人たちは唄が大好きでとてもうまい。
中宝村でのことである。村の入口の覆いかぶさるように枝を広げたガジュマルの巨木の前で、我々は行く手を遮られてしまった。道に竹竿が渡され、その竹竿にカラフルに刺繍された靴の中に敷く中敷きとビンク色に彩色された卵、藁づとに包まれたおこわを糸で結んだものが何組もぶら下げられている。
この竹竿をはさんで、村の人が全て出てきたのではないかと思われるほどおおぜいで唄の大合唱だ。唄の意味がぜんぜん分からないのが残念であるが、素朴で美しいメロディーの曲が多かった。彼らが一曲唄うと、我々もそれに応えて返歌しなければならない。
何曲唄ったであろうか、「貴州には海がないから“われは海の子”にしよう、続いて“どんぐりころころ”、“さくらさくら”、“知床旅惰”などなど童謡を主に返歌した。
このような曲を唄ったのは子供のころ以来である。やっと儀式が終わって入村が許され、先ほどの中敷きと卵の飾りを我々ひとりひとりの首にかけてくれた。中敷きは『旅で疲れた足を休めてください』という意味が込められ、卵とおこわは『おなかが空いたでしょう』という歓迎の印なのであった。私にとって、生涯この心のこもったもてなしを、忘れることはできない。

ガジュマルの巨木の下で迎えてくれた中宝村の人達
ロマン漂う風雨橋は独特の風格がある
さて、いつまでも酒と唄というわけにはいかない。木の民トン族の話に戻そう。トン族は木造の技術力を結集した象微灼な建築物を持っている。ひとつは木橋である「風雨橋」であり、もうひとつは「鼓楼」といわれる塔である。
トン族は水辺のある谷間に集落を形成するため、川を渡る橋がどうしても必要なのである。そこで彼らの優れた建築技術を活かし、個性的で独特の風格を持った木橋が風雨橋なのである。風雨橋はフォンユーチャォというのであるが、単なる橋としての機能だけでなく、村人の憩いの場にもなっている。
橋にはリッパな屋根がかけられ、渡るだけではなくここに集まって夕涼みをしたり、若い男女は歌垣によってお互いの愛を語らいあうのである。だから橋の欄干に沿って長いベンチが設けられている。
各村々に個性杓な風雨橋があるが、小さなものでは4〜5m規模のものから、大きなものになると70m以上のものまである。橋の装飾は村の経済カを反映しており、橋をみればその村が豊かであるかないかが分かるという。それはともかく、トン族は心やさしい民族で、旅人が村を訪れたときに風雨橋で一時でも雨を凌ぎ、足を休めてもらいたいという願いを込めて橋を造る。
風と雨の橋というのもどことなくロマンが漂い、白然の風景のなかに溶け込んでいる姿は、いつまで眺めていても見飽きることがない。
かつて、わが国も小規模な僑の多くが木製であった。いまでは木製の橋は皆無といえるほど、その姿を目にすることはない。橋に機能性と耐久性を求めることは重要なことであるが、その反面、橋に愛着を感じることもなくなってしまったのではないか。いや、瀬戸大橋や横浜のベイブリッジをわざわざ見学に行く人も多いのだから、橋には本来人を引きつけるものがあるのだろう。しかし、日頃接している橋は道路の一部であり、多少の自然災害で壊れることがないのがあたりまえになり、壊れようものなら行政サイドの無策ぶりを批判することになる。
木橋は鉄、コンクリート製に比べて当然耐久性が劣るわけであるが、事あるたびに村あげて修理したり架けかえ作業を行うことで、生活を通して自分たちの橋という意識が高まるとともに、その重要性をひしひしと感じないわけにはいかないだろう。
貴州省の村には未だに橋がなく、渡し船で往来している所もあるだけに、橋のありがたみがつくづく身に染みるのである。私たちの乗っている車も大きな渡し船が来るまで、数時間待っていたこともあつた。
岸辺から優雅な佇まいの風雨僑を眺めていると、いろいろな思いが湧いてきては消えていく。こうしたとりとめのない中で過ぎていく時間が心地よくもあり、いとおしく感じてしまうのであった。風雨橋には人と橋との深い関係が織りなされており、また建築技術にも数々の工夫がこらされている。

スマートで優雅な佇まいの風雨橋
高度な木造技術が活かされている程陽橋
“世界一の木橋”とトン族の人達が自慢するのが「程陽橋」である。この程陽橋は中国の重要文化財に指定されており、広西壮(チワン)族目治区三江トン族自治県の馬安村にひっそりと、それでいて圧倒的な存在感を漂わせて建っている。
全長77.76m、幅3.75m、川からの高さ11.52mという規模である。1912年に着工し1924年に完成したというから、12年の歳月をかけて建造されたものである。建造費は当時の金額で5万余元。トン族の木匠、石匠、泥瓦工、彫刻師が力を結集して建設されたという。橋としての規模だけでなく、装飾性においても他の風雨橋をはるかに凌いでいる。
冒頭の写真を見てもらいたいのだが、橋脚の上に建てられているのが「橋亭」と呼ばれているものであるが、その屋根形状は中央が六角形、その両脇が四角形、さらに両岸側に入母屋と五つの橋亭がある。
この程陽橋を目のあたりにした時の私の第一印象は複雑であった。それは、橋に機能美を求めることに慣らされている目には、橋亭があまりにも馴染みないものに映ってしまったからである。しかし、一方で橋の概念を超えた木造建築物としての究極の姿を見たような気にもさせられていた。
程陽橋の袂に広西三江トン族白治県文管所所長でトン族の文学や考古学の研究右である俣世華氏が待っていてくれた。俣氏が遠くから来た我々を歓迎し、熱心に説明してくれたところによると、
「この橋の建造にあたっては、土地(三江)の建築家8名が参加。設計するときに特に設計図を作成するというようなことはなく、小型の模型を作成し詳細を検討していった」のだという。建築家というのは通訳がそう翻訳したのであって、わが国でいう棟梁にあたる卓越技能者であり、こうしたプロは設計図など必要としないのだ。つい我々は設計図というものがすべての始まりみたいに思い込んでいるが、それは西欧の発想であり、東洋には東洋なりのやり方があるということを、この程陽橋を見ながら感じた。
材科は当然、貴州の杉であるが、ここから20km以内で伐採された樹齢80年のものが使われている。特に橋桁の基礎部分にあたるものは長さ18m、重さ1.2tもあり運搬に苦労した」という。クレーンなどの動力機械がないなかで、それだけの丸太を20kmも運んでくるのは大変である。
建造されたのが約80数年前というから、日本でもその当時はそれはど変わりない事情であったろうと想像するが、このトン族の村は今も昔から何も変わっていないだけに俣氏の説明に重みが加わってくるのであった。その橋桁の基礎部分は角材ではなく丸太をイカダ状に組んである。これらの丸太一本一本は重心の中心が揃えてある。丸太の重心がバラバラであると、長い年月を経ていく過程でよじれや転がりのほか、橋全体の重力のかかり具合によって傾いてしまう危険性があるからだ。丸太の重カの中心点をみつけるには、トン族が最も親しんでいる水の知恵が活かされている。水の中に丸太を浮かぺて、その丸太をゆっくり回して浮いた部分の断面積をみながら丸太を削って、重力の中心を揃えていく。
また、橋脚部分がイカダ状に梁が三屠になっている。これは一種の板バネになり、上からの重力を柔軟に吸収することで、橋の耐久性を高める工夫がされている。
「この板バネは、ちょうど貨物列車などの車輪に取り付けられた板バネと同じ原埋です。ですから重さを柔軟に吸収し、中間点で約20cm位橋桁が浮き沈みします。こうした軟構造が橋の耐久性に大きく影響するのです。この橋を建造した建築家は列車など見たことはありませんでしたが、早くからその原埋は知っていたわけです」と俣氏はにっこり笑い、少し胸を張った。
さらに、丸太の腐れを防ぐために桐の実から抽出した桐油の水槽に数カ月間も丸太を漬けて、十分に油が染み込んだ材が使われている。私は俣氏の一連の説明を受けてトン族の木に対する造けいの深さと素晴らしさを知ったわけであるが、こうした木造建築技術は600年代の唐の時代には確立されていたということを間いて、またまた、驚いてしまうのであった。
俣氏からは木の部介だけではなく、橋脚の石組のやり方や、風雨橋にまつわるエヒソードをたくさん間かせてもらったが、とてもここですべてを紹介するわけにいかないのが残念である。いつの間にか、橋の上で話込んでいるのは我々二人だけになってしまい、ガイドなど他の人達は昼食をご馳走になるために村長さんの家に向かってしまった。
食事の後にふるまってもらった「油茶」が美味しかった。この油茶はトン族の人達にとっては特別な事があった時に飲むものであるということであった。油茶という木の実を絞った油で茶葉を妙め、水を加えて煮立ててから、塩あるいは砂糖を入れる。これをあらかじめ具を入れておいた碗に漉しながら注ぐと出来上がりだ。具にはいろいろなものがあるが、私がいただいたのは飯を揚げたものに豆が混ぜてあった。お茶の渋みに塩味が加わった複雑な味であるが、具が香ばしくフウフウしながら飲むとなかなかいける。一度味を知ると病み付きになりそうに思った。
一族のシンボルは鼓楼
トン族の風雨橋と並んで象徴的な建築物が「鼓楼」である。鼓楼は各集落に一棟建てられている。建てられているというよりは持っていると言い方が適当だ。それは、一性族のシンボルであり、小さな集落であればそこに住む住民はすべて同じ性をもつ一族であることが多いため、各村に一棟ということになる。
肇興村には仁、義、札、智、信の性を持つ五つの性族で集落を形成しているため、五つの鼓楼がある村として有名である。少数民族のトン族は漢民族の迫害を逃れて山間の地にやって来たことは先に触れたが、敵の襲撃を受けるなどの有事が発生したときに、鼓楼の上部に吊るしてある太鼓を打ち鳴らし村人を招集したのである。太鼓のある塔だから鼓楼というわけだ。
こうした名残があるため、現在でも鼓楼は村人の中に溶け込んだものとなっており、集会所であり、祭りの場であり、外部からのお客を迎える場として利用されている。私たちを歓迎してくれたのも鼓楼であった。わが国の場合で例えるなら、鎮守の森の神社といった役割に、有事の時に半鐘を鳴らした火の見やぐらの機能が加わったものといえるだろう。今や鎮守の森も火の見やぐらも姿を消してしまったが、私は幼かった頃の村祭りを思い出したりして、鼓楼に何ともいえない親しみを感じた。

鼓楼は村の集会場の役割を果たしている
鼓楼の高さは20m程度であり、屋根が幾重にも重ねられている。パッと見た目には日本の五重の塔のイメージがわくが、ジーッと眺めているとそれほど似ていないように思えてくる。屋根の層は小規模な四層のものから十二層のものまでいろいろ見たが、なかには十五層のものもあるという。屋根形状は四角形、六角形、八角形であるが、凝ったものになると下部が四角形で上部が六角形や八角形になっている二つの形状を取り入れたものもある。
こうした屋根の頂点に葱坊主というか神輿に似た屋根が乗せられる。構造的にはここでも釘、金物はいっさい使わない木組みで立ち上げられている。塔全体の中心になる太い4本の柱から扇状に外側の柱に貫が数本通され、この貫に束を立てる。貫と束の組み合わせにより上へ上へと伸ばしていくのである。最初に鼓楼を遠くから見たときには「あれだけの高さがあるのだから、内部は芯柱のまわりに相当数の柱や梁が複雑に入り組んでいるのではないか」と想像していたが、実際の内部はがらんどうで拍子抜けした程であった。一度納得してしまえばどうということはないのであるが、知恵と工夫のなせる技としかいいようがない。
また、頂上部の葱坊主の部分は下から見上げたときに、より美しく重量感を強調するためであろう、刺し子模様に幅木を組んでボリュームを出している点もすばらしいものである。ともあれ、トン族は木を愛する民であり心やさしい民族という印象を強くした。
トン族の子供たち、日本人が忘れてしまった笑顔がある
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