住まいの源流を訪ねてアジアへ

 インドネシア・トラジャ=伝統建築は海洋民族としての誇り 
(文・写真 松下寛光)


海洋民族だったトラジャ人の象徴。威厳と風格がある母屋

◎スラウエシ島での夜

 

 一抹の不安を覚えつつウジュン・パンダンの空港に到着したのは、九八年三月二八日の午前〇時過ぎであった。一抹の不安というのは深夜に到着するというのに、その夜泊まるホテルが決まっていなかったからである。
 私は「木造建築の源流を求めて」の六回目にあたる旅にインドネシア・スラウェシ島のトラジャ地方を選び、前日の午前十一時、ガルーダ航空で成田を発ち、ジャカルタで国内便に乗り換えてここまでやってきたのであった。
  とにかく途中で宿泊などしないで、最短時間で目的地に近づこうというスケジュールを組んだために深夜の到着となってしまった。ホテルについては東京で予約できるウジュン・パンダンのホテルが見あたらなかったからである。

 気ままな一人旅なので、空港内のベンチかレストランで夜明かしすれば何とかなるだろうという気持ちがあった。だが一方で、田舎の空港の場合、最終便が出発なり到着すると空港施設が閉鎖されてしまうことも考えられた。いずれにしても、情報がないので行ってみなければ分からない。しかし、ウジュン・パンダンは人口60万人を超える南スラウェシ州の州都である。その規模からして私は前者を期待していたのであるが、現実は後者であった。

 ちなみに、かつて日本がインドネシアを統治していた時代を知っている人にとっては、スラウェシ島よりもセレベス島、ウジュン・パンダンよりもマカッサルと呼んだ方が分かりやすいかもしれない。
 やむなく、深夜のホテル探しということになったわけであるが、年輩のタクシー運転手のはからいにより、数件目に訪れたホテルで部屋を確保することができた。やれやれである。

 外国人の泊まり客が珍しいのか、愛想の良いボーイの説明によると、トラジャ行きのバスは朝八時発なので、ホテルを六時に出てバスターミナルに向かった方がいいという。四時間ほど寝ることができる、空港のベンチで過ごすよりははるかに疲れがとれることを喜んだ。だが、三時間ほど寝たところで、あの親切なボーイに起こされてしまった。もう六時だという。私の時計は五時を指している。

 つまり、私の時計はジャカルタ時間をボーイの時計はスラウェシ時間を指しているのであった。インドネシアは東部、中部、西部の三区分に分けた時差がある。インドネシアはそんなに広い国だったのかと、あらためて感じ入った。猛烈に眠かったがボーイのおかげで一日無駄にしないで済んだことを感謝するしかなかった。

◎海洋民族だったトラジャ族はキリスト教徒

 ウジュン・パンダンからトラジャ地方の中心地ランテパオまで、バスで約八時間の行程である。片道一万二五〇〇ルピア、日本円で約二二〇円。冷房バスもあると聞いていたが、インドネシア語がまったく分からない私にあれこれ選択する余地はなく、とにかくランテパオに行くというバスに乗り込んだ。冷房車ではなかった。

 バスターミナルを出て市内の要所要所で客を拾うといつの間にかほぼ満席になり、一路トラジャへと向かう。どうやら旅行者は私ひとりで、すべて現地の人のようである。車窓からみる熱帯の風景は興味がつきないのであるが、寝不足もあって半分以上は寝ていたように思う。
 スラウェシ島には造船技術に長けた海洋民族ブギス族をはじめ多くの民族が暮らしているが、これから向かうトラジャ地方(正式にはタナ・トラジャといいタナは「国」、トラジャは「山の人」を意味する)にはトラジャ族が3万6千人位住んでいる。 「山の人」と呼ばれるだけに、この地域は熱帯樹林に囲まれた標高約八〇〇bの高原地帯である。

 インドネシアは言わずと知れたイスラム教徒の国で人口一億九千万人のうち九割がイスラム教を信仰している。こうしたなかにあって、トラジャ族はキリスト教徒であり、現在でも伝統的な独自の文化を守った生活をしている。かつて、トラジャ地方にイスラム教もキリスト教もほぼ同時期に伝播してきたのであるが、彼らは豚肉、酒が許されるなど戒律が厳しくないキリスト教を受け入れたのだという。

 トラジャ族独自の文化のひとつとして知られているのが、トコナンというユニークな舟形の屋根をした木造住居である。私は、この木造住居を調べるためにバスに乗っているのであった。
 バスは気温三五度近くの猛暑のなかを途中で昼食やトイレタイムのために何度か休憩を取り、予定どおり夕刻トラジャ地方に入った。夕刻といっても東京から比べるとはるかに明るい。それに、高原のせいかいくぶん暑さもやわらいでいる。

 前日に比べるとはるかに気分は楽なのであるが、またしてもランテパオに到着するなり、宿探しの仕事が残っていた。
 八時間のバスの旅で隣席の人達と、言葉が通じないなりに果物を分けてもらったり、ガムをお返ししたりで、親しくなった。それを頼りに宿の件を訊ねてみるが、「宿はあるので心配ない」というのを理解するのがやっとで、詳しい場所や値段を教えてもらうのは無理であった。

 その隣人達も最初の停車地マカレで降りてしまった。その空いた席に、後ろから青年がやってきて座り、英語で話しかけてきた。観光ガイドだという。青年は後ろで宿探しの件を耳にしたのかも知れないし、先に降りた隣人が私のことを彼に教えたのかも知れない。いずれにしても、「安くて、いい宿に案内する」と積極的である。それは非常にありがたいことであるが、一応用心して「部屋をみて気に入ったら決める」ということにして、最終目的地のランテパオに到着した。

 案内された宿はトコナン住居を模したコテージで、七棟が中庭を囲んで配されており、こじんまりとして静かな佇まいが気に入り、すぐにOKを出した。値段は朝食付きで五〇〇〇ルピア(約八七〇円)。青年は「どうだ!、気にいただろう」と笑い、ガイドはどうかと薦める。もちろん自分を売り込んでいるのである。ガイド料、ドライバー、三菱のバン、昼食、税金などすべて込みで一日四〇米ドルだという。

 宿が決まって少し落ち着いた目で見ると、どうも調子のいい青年に思えたのと、一日四〇ドルという値段が、当地では安いのか高いのか判断できなかった。だが、事を決断する場合その場のタイミングが重要であることを、これまでの旅で実感していたので、彼を雇うことにした。いやというほど情報と選択肢がある東京にいると「もう少し検討してから」などと判断を先送りにする事が多い。しかし、僻地を旅する場合、一度タイミングを失うと二度とそのチャンスがめぐってこなくて、後悔することもあるのだ。

◎海洋民族としての誇りであるトコナン

 ガイドの名前はフレデリック・プラユカンという。欧米人のようなフレデリックという名はキリスト教徒と関係がありそうな響きである。私は彼を姓のプラユカンではとても舌が回らないので名のフレデリックと呼ぶことにした。

 フレデリックと最初に向かったのがケテ・ケス村で、ここには一五〜一六棟の建物が二列に向かい合って並んでいる。母屋にあたる大きな家を挟んで反対側に小さな建物が八棟整列している。この小さな建物は米倉で、この米倉が何棟あるかでその村の貧富の差が分かるのだという。

 「ここは米倉が八棟もある村で、大変金持ちである」とフレデリックがいう。彼はいちおうまじめに説明しているのであろうが、どうも嘘っぽく聞こえてしまう。彼の調子のよい態度がいけないのだ。それにしても、近くから見るトコナンはなかなかの迫力であり、存在感がある。そのうちの一棟は屋根のふき替えをしていた。こうした現場は取材のポイントである。


整然と並んだ舟形屋根のトコナンが美しい風景を形成している

屋根の葺き替えをしている現場。屋根材は竹で約40年の耐用年数があるという

 「あの屋根の上にあがってもいいか」「ちょっと待て、危ないぞ」「でも、竹を組んで屋根材にしているところを、接近して写真を撮りたい」「しかたがないな、大工に聞いてみる」

 そんなやり取りをして、何とか足場を登って屋根に近づくことができた。私は日本にいてもこうした取材に自信があったし、他のアジアの建物を見るときも積極的に現場に接近することにしている。また、こうした行為はガイドを“教育”することにもなる。こちら側が、何を見たり写真に撮りたいかを具体的に知ってもらことで、お互いのコミュニケーションがスムーズにいくからだ。

 ケテ・ケス村はトラジャ観光のポイントのひとつになっているらしく、建物の保存状態もよく周辺の整備も行き届いていた。後に分かったことであるが、日本の文化庁も伝統建築のトコナン保存に資金援助しており、ここの屋根のふき替えもその資金が使われているという。

 ということは、トコナンも世界中の伝統建築と同様に、保護策を講じなければならない情況になっているということである。この点に関しては追々触れていきたい。その前に、なぜトコナンがユニークな舟形屋根をしているのかを知っておくべきだろう。

 南スラウエシ島には大きく分けて四民族が暮らしており、トラジャ族、マカサル族、ブギス族、マンダル族である。四民族とも昔から海洋民族で、中国やベトナムなど、いわゆる大陸からわたってきた民族であるといわれている。そのうちトラジャ族は島の内陸に移り住むことになり、農業を中心とした生活を営むようになった。しかし、海洋民族としてのアイデンティティーを住居の屋根に残した。他の三民族はそのまま海洋民族として暮らし、伝統的な大きな木造船で北オーストラリア、太平洋、アフリカ西海岸まで航海していたようだ。

 何らかの事情により、海を捨てて陸にあがったトラジャ族は、海洋民族であった誇りを忘れないようにするため、屋根を舟の形にして残し続けているというのが、一般的な見解である。山の頂から点在する村を見下ろすと、緑濃い熱帯の樹木の間から垣間見せるトコナンの家々は荒波を乗り越えて航海する舟といってもよい風景を形成している。

◎母屋と米倉が対峙して並ぶ

 ケテ・ケス村を皮切りに、ナンガラ、シグントゥ、ボリ、パラワ、サダン、レンボ、ロコマタ、パルプの村々を五日間ほどかけて、私はガイドのフレデリック、ドライバーと共に丁寧に見て回った。トラジャは標高八〇〇bの高地で回りを一〇〇〇b〜二〇〇〇bクラスの山々で囲まれた盆地である。そのせいか、夜と朝方は涼しいが、日中は三五度位の暑さになるし、必ず一日一回猛烈に激しいスコールに見舞われるし、で一日の行動時間はせいぜい五時間くらいである。

 当然、車で行けるところまでは車で行くが、そこから先は三〇分なり一時間歩かなければならない村も多く、日頃の運動不足がたたって難渋することが多かった。さすがに若いフレデリックは元気で、ジョギングポーズで坂道を駆け上がったりして、息を切らしている私をからかうのであった。

 数々のトコナンを見て、可能な限りそこに住んでいる人から話を聞くことによって、おぼろげながら居住形態の全体像が見えはじめてきた。まず、敷地であるが広場であり農作業場でもあるスペースを挟んで、住居として使われる母屋と米を保存する倉が対峙するかたちで平行に並んで建てられる。

 母屋の正面、つまり広場に向いた妻側になるが、これは必ず北向きである。トラジャは赤道直下に位置しているが、南半球にあたるため太陽に向いた方向は北側になるからである。われわれ北半球の人間が日当たりのよい南向きに縁側など開口部を持ってくるのと同様な扱いといっていいだろう。もっとも、熱帯の暑い当地では母屋の正面に日当たりを求めることはなく、太陽に背を向けた生活をしないということである。

 敷地のレイアウトが比較的自由な平野部では、住棟の配置が整然としており実に美しい光景を見ることができる。これに対して、山間部では傾斜地など敷地の制約があるため、多少形態が崩れる。
 これまで、トラジャ族の伝統的な住居の総称として単にトコナンという言葉を使ってきたが、厳密には母屋がトコナンであり、米倉をアランと呼ぶ。そうして広場を挟んだ母屋と米倉が一体となった居住形態もまた、トコナンという。トコナンは「相談する場所」という意味である。

 したがって、米倉が建設されていなくて、母屋だけの場合はトコナンとはいわないで、マヌアと呼ばれる。マヌアは単に「泊まるところ」という意味を持っている。
 一姓族単位で「相談する場所」であるトコナンを形成しており、豊かなトコナンは母屋が三、四棟、米倉が十数棟並んでるものもある。また、山間部では米倉のないマヌアがよく目についた。豊かさの象徴が米倉の数であるが、現在は必ずしもそれだけで判断できない。農作物の主体が米で、一姓族あげての労働集約型の農作業をしていた時代にあっては、繁栄という意味で米倉の存在が大きかったに違いない。しかし、最近ではコーヒー園で働く農民も多いようで、マヌアで事足りる人もいるのである。


10数棟が整然と並んだ米倉。米倉の数は豊かさの象徴である

 ところで、コーヒー通にはよく知られていることであるが、トラジャコーヒーは世界的に有名である。特にアラビカ種は最高品質の生産地として知られている。フレデリックがとびっきり旨いアラビカコーヒーを飲ませてくれるところがあるというので、ある人家につれていってくれた。そこで飲んだコーヒーは確かに香り、苦味、酸味とも申し分ない味がした。

◎ユニークな舟形屋根は竹葺き

 次ぎに建物のディテールをみていこう。外観は写真のとおりであり、高床式の木造で大きな屋根がかけられている。まず、一番気になる屋根であるが、屋根材は竹がふんだんに使われる。竹を半割にして長さ八〇aから一bくらいに切りそろえる。これが最小単位のパーツになる。建物の大きさによって異なるが、この竹の長さが屋根の厚みとなって表れる。大型の建物は長く、米倉のような小型のものは短い。

 切りそろえられた各パーツは施工後ずれたり抜け落ちたりするのを防ぐために、上部にスリット状の穴をあけて竹ヒゴを通し、五本づつ連結する。これが二次加工されたパーツで、竹ヒゴの部分を持ち上げると五本の半割りされた竹がぶら下がる格好になる。

 この二次加工パーツを竹の半円形の山と谷を抱き合わせて、軒から棟まで積み重ねていくのである。舳先にあたる飛び出た部分も同様である。積み重ねると表現したが、実際は屋根下地にあたるすだれ状に編んだ細い竹に、二次加工パーツの竹ヒゴが縛られて固定されている。また、重ね合わせの部分には防水性を増すためにシュロの外皮である堅い繊維を敷いてある。

 これら、竹葺き屋根の技術は長い伝統のなかで完成された技術といっていいだろう。耐用年数は約四〇年で、四〇年ごとに葺き替えてリニューアルしていくのだという。古い屋根は表面の方から竹が腐るため、そこに苔や草が生える。かつて、日本の田舎で目にすることができた藁や茅葺き屋根と似たような風情をみせている。

 屋根はほとんど竹葺きが一般的であるが、フレデリックによると竹よりも高級なパラムで葺いた屋根もあるという。それはトラジャ地方のはずれのパルプという村にあるというので、一泊二日の行程で出向くことにした。


泊めてもらった民宿。高地のため毎朝霧が立ちこめる

 パラムはヤシの木のことで、ココヤシ、サゴヤシなどインドネシアには何十種類ものヤシが生育している。ぜひ、屋根材に使われるヤシの名前が知りたかったが、フレデリックもそこまでは知らないという。とにかく行ってみることに決め、途中で何カ所かの村に寄りながら、バトゥトゥモガというところで民宿に泊まり、翌日目指すパルプ村に向かった。

 例によって、車を乗り捨ててから汗だくになって棚田のあぜ道を抜け、小道を登っていった山の中腹に小さな村があった。母屋をはじめ数棟の建物が建っている。そのうちの一棟で倉として使われている建物がパラムで葺いてあった。ひと目で相当古い建物であることが伺えた。

 さっそく屋根材を確かめたのであるが、都合のいいことに補修用に使うためだろう。軒下にその屋根材がひとかたまり積んであった。私の判断ではシュロの外皮を剥いたような素材である。茶褐色で厚さ四a、横一五a、縦三〇aくらいの大きさである。張り込む前の芝のような状態で積んである。

 住人に話を聞かせてもらった。「屋根材としてはこれが最高だ」「だが、素材が高価で、量が少ないのでパラムで葺いた屋根はそう多くはない」「この建物の屋根は、四〇〇年間葺き替えていないが、まだ補修だけで十分持つ」という返事であった。

 この熱帯雨林地帯の過酷な気象条件のなかで、四〇〇年とは恐れ入ったものである。フレデリックに間違いないか何度も確かめてもらったが、「おじいさんのそのまたおじいさんの、そのまたまた、先祖の時代からそのままだ」という。私としてはにわかに信じる気になれなかったが、彼らが私に嘘をついてもしょうがないわけで、本当なのであろう。だとすると驚異の建材だ。

 屋根が四〇〇年なら、躯体も四〇〇年ということになる。なをも疑いの眼で柱、梁を調べたが腐れがでた部分は根継ぎするなど、何度も補修した後が確認できた。たぶん相当大切に使われてきた建物に違いない。パラムの屋根はパルプの村に数棟しかないということであった。この先もこの驚異の建材で葺かれる建物はでてこないだろう。

 というのは、一般的な竹葺き屋根も減ってきているからである。これらに変わる建材は情けないことにトタンである。舟形屋根全体をトタンで覆っている住居がどの村にも必ずあり、その勢力を増しているようなのだ。

 日本でも藁や茅葺き屋根をトタンで覆って、腐れの進行を抑えたり、防火上の対策をしている家をよく見かける。当初、これと同じような現象がトラジャでも起き始めているのかと思っていた。だが、事情は少し違っていた。竹屋根に比べてトタン屋根の方がはるかに安いというのがその理由であった。竹屋根を葺くには竹の加工から施工まで多くの手間と時間を必要とする。この人件費が高くなっているのである。トタン屋根は数日間もあれば施工できるので安いのだ。

 だが、耐用年数には大きな差がある。竹葺きは約四〇年持つが、トタンは錆も出るしせいぜい五,六年であろう。しかも、古い竹葺き屋根の上にトタンでカバーしているのではなく、トタンの裏側は直小屋裏空間なのだという。その理由を詳しく教えてくれる人はいなかったが、おそらく、トタンで覆われた古竹は空気の流通が遮断され、熱と湿気で腐敗をさらに早め、腐臭などは室内側にこもるからかもしれない。これでは断熱性がゼロであり小屋裏空間は猛烈な暑さになることは間違いない。それでも、トタン屋根が増えて、伝統の竹葺きが廃れつつあるのは寂しい気がしてならない。

◎居住部分に施される緻密な装飾

 屋根の葺き替えがこうした情況にあるので、想像はつくが、トコナンの新築もめっきり減ってしまったという。その理由も建築費が高価なものになってしまったからである。人々は高床のごく一般的な木造平屋建てに住む人も増えている。この先、トラジャ族のアイデンティティはどうなってしまうのだろうか。

 そんな私の気持ちが通じたのか、我々は幸運にもロコマタ村でトコナンの新築現場に出会うことができた。棟上げが終わり舳先にあたる部分を施工しているところである。躯体の全容を知るには非常によいタイミングだ。


最近ではめっきり少なくなったトコナンの新築現場

舟形屋根を特徴づける舳先部分の施工

 

 写真を見てもらえば解るように、高床部分は貫工法によって組まれている。その上に居住スペースが造られることになるが、高床部分と居住部分は分離された格好になっている。それは通し柱を用いるなどで一体化されていないことでも解るが、高床部分に居住部分を載っけるかたちで造作されているといってよいだろう。

 これは屋根部分にもいえることで、屋根の重力は居住部分にかからないで、直接高床部分で受ける工夫がされている。屋根全体を支える柱は、高床の太い柱から水平に伸びてきている腕木によって支えられている。また、舳先部分の重さは地上から立てた棟柱によって支えられる。

 トコナンの躯体は、大きく分けて高床部分、居住部分、屋根部分に分けることができ、それぞれ独立した役割を担っているようだ。最も重要なのは土台の上に組み上げられた高床部分で、居住部分と屋根部分の重量を直接支えているからだ。

 五日間近くかけて数多くのトコナンを見た結果の感想になるが、私としては、海洋民族であったトラジャ族のアイデンティティの象徴が舟形屋根にあるとするなら、一種のモニュメント的な考えから高床部分である台座に舟を設置したのではないだろうか。そうして、その中間領域に舟に乗り込むかたちで居住スペースを確保したのではないか――と思いをめぐらすのであった。

 こう考えると、各部分の独立性が納得いくものになるのである。居住部分の構成は柱梁工法で、柱と柱の間に板壁が差し込まれる。これらの外部に露出している柱、梁、板壁には緻密な彫刻と彩色が施されている。高床部分の柱などにはそうした装飾がいっさいされていないことから、ここでもそれぞれ独立というか分離されたものになっている。

 装飾の模様はトラジャ独特のもので、パターン化されておりそれぞれに意味がある。その種類は七〇種位あり、豊作祈願、家内安全を願ったものから、トラジャ族の偉大さ高貴さをシンボライズしたものなど、様々な意味を持っている。建物の正面に当たる壁には水牛のレリーフが飾られていることが多い。

建物はトラジャ独特の緻密な模様で装飾される

 

 水牛はトラジャ人にとって非常に重要な生き物で、葬式の時のいけにえにする。トラジャ人は葬式のために生きている、といわれるほど盛大な儀式が繰り広げられる。キリスト教徒の彼らも、葬式だけは昔ながらの風習を守り続けているのである。

 多くの人が葬式に全財産を投入するという。トラジャ人は来世を信じており、「死後は来世に行って永遠の人生を送る」のだ。葬式は新しい人生への門出というわけである。葬式の費用がない家では、費用ができるまで遺体をミイラにしておき数年後に葬式を行うことも珍しくない。また、長老など偉い人の葬式となると数年もかかり、いけにえの水牛は一〇〇頭にもなる。

 水牛の次ぎに多く見られるのが鶏である。鶏は時間を意味しているほかに、喧嘩の仲裁をする生き物として大切にされている。その昔何かもめ事がおきると、当事者同士が闘鶏をして決着を付けたことからきている。

 フレデリックに頼んで、装飾をしている職人の仕事場に案内してもらったが、それは製材工場と加工場を兼ねた建物の脇にあった。黒く塗った板に、小刀で模様を切り出していく、働いているのはなぜかみんな少年であった。

 もう一度、躯体の話に戻るが米倉のアランも、工法的には母屋のトコナンと同じである。ただ高床部分に使われる材料がヤシの木であるところが興味深かった。写真に見られる円柱の木はヤシの木である。ヤシの木は建築材料に使われることなどないと思っていたので、認識を新たにした。

 ヤシの柱はパイプのように中が空洞であり、五、六a幅の側は繊維を圧縮して固めた感じで非常に堅い。米倉を支える程度の柱材には十分使えるのだろう。ちなみに、母屋に使われる樹種には、「ウルゥ」「ポポン」「カロア」という木が使用されているということであったが、日本名でこれらの木を何と呼ぶのか、いまの私にその知識はない。


正面から見た母屋。圧倒的な存在感で迫ってくる。棟柱の水牛
の角は冠婚葬祭などが行われるたびに追加されていく

 

◎トコナンで過ごした思い出の一日

 今回の旅で特に思い出深いこととして記憶に残っているのが、トラジャのはずれパルプに一泊二日で出かけた時に泊まった民宿である。現地の人やトレッキングに来る観光客が泊まれるように農家が副業としてやっている。トラジャに来る観光客の多くがヨーロッパの人達で、その多くがトレッキングを目的にやってくる。

 彼らはランテパオをベースに、一泊とか二泊の行程であちこちにトレッキングに出かける。高原地帯のトラジャは景色もよく、トレッキングやパラグライダーをするには絶好のロケーションのようなのだ。とはいっても、日本で考えられるようなレジャー施設やサービスは皆無なので、遭難もケガもすべて自己責任である。その点ヨーロッパ人は実に精力的でタフだ。

 私などは村々を訪れるだけで息を切らしているので、一日八時間二日も三日も歩くトレッキングなどとても無理である。それはともかく、その民宿はトコナンであった。厳密にいうと米倉がなかったので、マヌアということになる。泊まったのは私とフレデリックの二人で、ドライバーはガソリンを補給しなければならないため、街まで戻り早朝引き返して来るという。

 泊まったトコナンは梯子のような階段を上がって部屋に入ると、がらんとしておりここが居間ということになる。舳先にあたる両端に一bほど高くなった部屋が続いている。居間の両端に高座ともいえる部屋を造るのが、トコナンの一般的な間取りである。

 宿泊客が多い場合は、日本の山小屋のように大勢が雑魚寝するのであろうが、今日の客は我々二人だけである。見るだけでなく泊まる体験ができるのは願ってもないことである。フレデリックはひょうきんな調子のいいヤツと思っていたが、たまには粋なはからいをするいい面もあるのだ。

 夕食は農家の人達が住んでいる棟で食べたが、これもフレデリックのはからいで、トラジャの特別料理を出してもらった。それは竹筒に鶏肉を詰めて、蒸し焼きにしたもので、竹を割って中身を取り出して食べる。味がちょっと薄い気もしたが、香ばしくてなかなかいけるのだ。こうなると、酒が欲しくなる。

 ヤシ酒がないか主人に聞いたところあるという。トラジャはイスラム教ではなくキリスト教の地であるため、ヤシ酒を造っていることは、出発前にいろいろ調べた本に書いてあったので知っていた。「ヤシ酒はないか」「あるよ」という、この間合いがいい。私はすっかりうれしくなってしまった。

 どんぶりに入れられたヤシ酒をコップに注いで飲んでみる。乳白色の液体は酸味があってほんのり甘い。アルコール度数は五、六%といったところか、物珍しさも手伝って四、五杯飲んだがそれ以上はいいという感じであった。フレデリックはビールはいくらでもつき合うくせに、ヤシ酒は一口飲んだだけで顔を大げさにしかめて、拒否するのであった。

 自分たちの地酒をそんなふうな扱いでいいのか、というお節介はいわなかった。ところで、ヤシ酒はこちらでバロックと呼ぶが、ココヤシの木の樹液から造るのだという。私は酒というのは何でも実から造るものだという固定概念があったせいで、ココナツの実から造るものと思っていたが、大きな間違いであった。

 ココヤシの幹から葉がでている付け根あたりに傷を付けて、竹筒をあてがっておくと樹液が貯まる。樹液は自然に発酵し半日もすればりっぱな酒になっているという。それほど簡単に造れるとは、養老の滝ならぬ養老の木ではないか。できることなら、我が家の庭にもココヤシの木を数本植えておきたいものだ。
 というわけで、トコナンで泊まった一夜は忘れられない一日となった。


トラジャ族の子供たち、明るく元気に遊んでいる


 

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