住まいの源流を訪ねてアジアへ

 中国・雲南省=シーサンパンナの高床式住居に日本のルーツを見る 
(文・写真 松下寛光)


 景洪・タイ族の農家

 雲南省は広い中国のなかでも西南に位置している。またこれから紹介する西双版納(シーサンパンナ)タイ族自治州は雲南省の最南にありミャンマー、ラオスと国境を接している地域である。気候的には亜熱帯に属し、タイ族をはじめプーラン族、ジノー族、ハニ族、ラフ族といった少数民族の人達が数多く住んでいる。
 北京や上海といった大都会からイメージされる中国やロマン街道として観光客に人気の高いシルクロードとはまったく違った、ここも中国かと思えるような明るい日差しに満ちた“南国”が西双版納である。
 ここに高床式の木造住居に暮らす人々がおり、わが国の高床式住居の源流は雲南地域にあり稲作技術とともに長い年月を経て伝播してきたという説がある。稲作の起源についてはインドのアッサム、雲南省がルーツであることはほぼ定説になっていることから考えると、住居についても大きな関わりを持っているに違いない。というのが私が雲南省に旅することになった動機である。
 なかでも西双版納のタイ族は今でも昔ながらの高床式住居に住み、建設し続けていると聞いて心は弾んだ。また、シーサンパンナという言葉からの響きもいい。さらにである、この地域は美人の産地でもありおしゃれで綺麗な女性がたくさんいるというのである。
 いろいろな期待を込めて、当地が雨期に入る前の気候の良い3月末を選び、上海経緯で雲南省の省都昆明(クンミン)に向かった。1994年の事である。

経済発展とともに変わる昆明
 今回の旅は西双版納には3度目の訪問であり、少数民族を中心に写真を撮り続けているM氏との二人旅である。ルートづくりには事前に出来る限りの情報を集めて検討するのであるが、辺境の地にはそれほど多くの情報があるわけではなくいつも苦労する。一般的には昆明から西双版納には飛行機で景洪(ジンホン)に入る。わずか50分のフライトであるが、陸路を取ると哀牢山脈と無量山脈を横断するため高い山また山を超える必要があるので3日かかるという。かつては道も悪く馬で1ヵ月以上もかかった道のりである。
 「往復飛行機というのも能がないし、山越えをしてこそ西双版納にたどり着いたという感激も湧くのではないか」という軽い気持ちで片道は陸路を選んだ。M氏も陸路ははじめてなので異存はないと言うが、ただ心配なのはその間に少数民族の村があるとは聞いたことがないし短い旅行期間で3日間も費やすのはもったいないのではないかということであった。しかし、私としては単純にどんなに退屈であっても山が見たかった。
 また、今回の旅とは直接関係ないが中国の経済発展のすさまじさは聞きしにまさるものがあり、辺境の地と言われてきた雲南省にもその波が押し寄せてきている。それどころか雲南省はミャンマー、タイへの交易拡大の拠点になっている。雲南省から両国へ大量の中国産物資が輸出され年間の交易額は400億円にものぼっていると言われている。更なる拡大を目指して中国は昆明からミャンマー経由でタイ北部までのハイウエー計画を進めようとしているが、その道路が我々が山越えをしようという道なのである。そんなことでその道路事情なりを知っておきたいというジャーナリストとしての“イロケ”も多少はあった。

 国内線の雲南航空で午後2時頃、上海から昆明に到着すると今回のガイドをお願いしているガイドの陳波(チンボー)氏とドライバーが迎えてくれた。最終的な旅行ルートの打ち合わせを行い、夕食までの時間を利用して民族村で予備知識を入れておこうということになった。この民族村は日本の明治村みたいなところで、雲南省に住んでいる各少数民族の建物と暮らしぶりが解るように展示されている。メインホールでは華やかな民族衣装を着た人達の踊りも披露され、昆明市民だけでなく多くの観光客が訪れる憩いの場にもなっているようだ。
 内部は相当広くすべてをじっくり見学するには半日以上は必要であろうと思われた。M氏は以前にもここを訪れたことがあるので、なれた物腰で何カ所かの“モデル”住居を訪ねた。そこには民族衣装で身を包んだコンパニオンがいるのであるが、「どこの村から来ましたか」「その村はこの地図で見るとどこらへんですか」「そこには両親や姉弟が住んでいるのですか」と質問をはじめた。
 どうやら、コンパニオン達は各民族の村々から数カ月とか半年単位で“駆り出され”民族村に勤めているのだった。女性のコンパニオンはこうした仕事がらか、村の綺麗どころが来ているのだろう。M氏は綺麗どころにお近づきになりたいというだけでなく、我々の旅行ルートに彼女たちの村があれば詳しく聞いて訪ねていくための情報を集めていたのである。
 後にこうした情報がいかに重要であったかを知ることになるが、その村を訪ね「○○さんは民族村で元気で働いていましたよ」の一言で、村人は我々に心を開き家にまで上げてくれ、お茶をごちそうしてくれるのであった。そうなれば、写真の撮影も取材もどれだけスムーズに進むかは言うまでもないことである。

 明日からは都会とは無縁の生活になるので、今夜はおいしいものを食べておきましょうという陳波さんの提案で、昆明の高級レストランに案内してもらった。料理は洗練されており雲南の珍味も特産の酒もすこぶる旨く、特に紫色のもち米のお粥が興味深かった。すっかりごきげんになったころにステージで少数民族の踊りがはじまり、店中が盛り上がりをみせお客も誘いに乗って踊りに加わり出した。たぶん日本人グループではないかと思っていた、背広にネクタイ姿のおっさんビジネスマン達が立ちあがった。やはり日本人グループであった。カラオケバーののりではしゃぎ、踊りが終わったあともカラオケへと流れていき、我々は見たくないものを見てしまったような気分になり席を後にしたのであった。
 このところ急速に昆明に来る日本人ビジネスマンが増えているという。ホテル、オフィスビル不足に伴う合弁事業やこちらでは食する習慣のないマツタケをはじめとした第一次産品の買い付けなどビジネスのネタが増えているからだ。

山頂に暮らすハニ族の村を訪ねる
 昆明飯店で早々に朝食をすませてマイクロバスのトヨエースで今日の目的地元江へと向かった。10人乗りのトヨエースに我々2人とガイド、ドライバーの4人だけなので広々したものだ。昆明から2時間くらいまでは有料道路が整備されておりハイウエー建設が始まっている。回りの風景は田園風景が続き、曇り空のせいもあるが田圃は稲刈りの終わった黄褐色と次の田植えまでのつなぎとして栽培されているソラマメの緑が混在しており、秋なのか春なのか季節感を喪失するような景色がどこまでも続く。今は農閑期で4月にはいると本格的な農作業が始まる。
 このへんは二毛作地帯であるが、西双版納までいくと三毛作も可能だというから、雲南省の平野部は気候に恵まれた土地である。ほどなく快適だった有料道路が終わり一般道に変わった。と同時に山が目立ちはじめるがどの山も禿げ山で一応雑草や低木で覆われているため緑色をしているものの、山肌、稜線などは地表をなどることができる。鬱蒼とした熱帯林などとはほど遠い様相を呈している。工業都市の玉渓市を過ぎたあたりから畑も民家も姿をけし険しい山道が続くようになった。変わらないのは禿げ山だけで荒涼とした風景が連なるばかりだ。夕刻前に元江に着いた。なんの変哲もない小さな町でガイドの陳波さんも我々の質問に答える以外これといって案内するところもなく張り合いがないようである。

 陳波さんは地元雲南の大学の日本語学科を卒業した後京都に数年間住んでいたことがあり、その間北海道以外ほとんどの県を旅行したということで、日本人の習慣や好みについても詳しくいろいろ気をつかってくれる。夕食は泊まっている賓館ではなくちょっとした繁華街へ出ることにした。繁華街といっても何があるわけでもないが、それでも通りを行き交う人を眺めながら食べる方が変化があっていいものだ。
 入った食堂は家族経営でテーブルが7つほどのこじんまりした店であった。50がらみのちょっと怖そうな感じの主人を交えて白酒(パイチュウ)を飲みながら雑談をしていたら、主人はハニ族でここからそれほど遠くない村の出身だという。ハニ族に感心があるならぜひ私の村に寄っていけと場所を教えてくれた。
 何もない通りすがりの町での意外な話しにM氏は大いに喜びさっそく次の日行くことに決めた。山の村に高床式住居があるとは思わなかったが私も賛成した。それはこのへんに少数民族の村はないと聞いていたM氏にとって興奮に値する出来事であり、その気持ちが良く解ったからだ。その村は紫駝駱村というところでその日の目的地である思茅(スーマオ)に向かう途中、幹線道路を離れて山を登っていくという。
 トヨエースがやっと入れる細い道を山に向かって入っていく。ほどなく急斜面に出くわしタイヤがスリップするがもう後戻りすることはできない。四人ともとんでもないところに入り込んでしまったと思ったが後の祭りだ。腹を決めて先へ進むほかない。気分が落ちついてきて回りを見ると禿げ山だと思いこんでいた山全体が畑であることに驚く。緩斜面は段々畑になっているが、よじ登らなければならないような急斜面も階段状に畝を切ってトウモロコシが植えてある。登っても登っても延々と畑が続く。

 とても人間が行った作業とは信じがたい、が同時に人間の偉大さも発見したような気になった。ここの畑作業からみれば日本の農作業なんて朝メシ前の仕事だ。なにが3Kだ!バカヤロと声を出さずに叫んでしまった。私はすっかりこの風景に圧倒されてしまい意気消沈してしまったのである。
 スリップしながらあえぎあえぎ登ってきたとはいえ1時間近くたってもまだ村は出現しない。そのうち霧が出てきて視界も悪くなり不安になってきた。本当にこの先に村があるのだろうか。陳波さんに聞く気になったが彼とて食堂の主人に教えてもらっただけにすぎなく答えようがないだろと諦めた。突然、霧が晴れて視界が開けつまらない不安は吹っ飛び、幻想の世界に飛び込んでしまった。足下には雲海が広がり眩しいほどの熱帯の陽光が輝いていたからだ。目指す紫駝駱村も雲海の対岸に見える。
“雲海の上の孤高の村”そんなシチュエーションが似合うなと思った。

 村に入るとまず最初に迎えてくれたのが子供達であった。村長さんの家に案内してもらい来村の意を伝えると「はるばるよくこの村を訪ねてくれた」とまずお茶をごちそうしてくれた。この村は海抜1620mで麓が650mであるというから我々は一気に1000m近くも登ってきたのである。霧は毎日一度必ず麓から上昇してきて昼頃には村に達し消えていく。ということは山の上はいつも天気がよい、したがって頂上付近に村があるのは当然なのだろう。山全体が畑というのも霧がもたらす恵みによるところが大きい。
 だが、日差しは強いが高度があるため気温は低く時には雪が降ることもあるという。熱帯性気候の地域にあって局地的にはこうした所もあるのだ。霧が晴れるまでの午前中いっぱいどんよりした天候の麓に暮らすよりも青天井の山頂の方が気分がよいに違いない。ただ、健脚でなければここでは生きていけない。

 陸路による山越えというコースを選んだ私としては当初ふたつの山脈を横断する水平の移動した頭になかったが、垂直というか高度によて住み分けがされていることを知ることは新しい“発見”であった。
 世話好きそうな青年が村を案内してくれるというので村長さんに礼をいって辞した。村の家はすべて日乾レンガ造りである。練った土を型枠に入れておくと3日くらでできあがり積み上げていくだけた。防寒的にもこの村にとってこれ以上の素材はないであろう。歩きながら聞いた青年の話によると、この村の人口は1300人、200世帯、小学校がひとつある。主な収入はサトウキビ、トウモロコシ、ジャガイモであり里の自由市場に持っていき換金する。主食はコメで山間の段々畑で年2回収穫がある。一世帯当たりの平均年収は3000元(約42,000円)。畑仕事はもう馴れているので苦にならないが、飲み水が問題だという。意外だったのはこの村の人達はキリスト教徒であり、そのため「われわれは血を食べることはない」と青年はいう。
 別れの挨拶をしているときに青年は外国人を見たのははじめてだといった。それで私みたいな者がはじめて見る外国人でもうしわけなかったような気持ちを抱きながらハニ族の村を後にした。

タイ族の民家は洗練されたデザインだ
 思茅から西双版納の中心都市景洪に向かうにつれて南下しているのと高度が下がっていくため3月末ではあるがポロシャツにジャンパーでも汗ばむほどの暖かさである。日差しも南国という感じで山の木々も豊かになってきて我々の目から見るとやっと山らしくなってくる。景洪の数キロ手前のモンヤンで左折して途中タイ族の村に立ち寄りながらモンローに行くことにした。モンローには世界的にも有名な熱帯植物園がある。ここまで来るといよいよ高床式住宅居の登場だ。
 路上でスイカやパイナップルを売っている光景があちこちで目にとまる。スイカは1個日本円で8円くらいであり水分が多く甘い。年に何回くらい採れるのか聞いたら一年中採れるという返事で、あらためて熱帯地方であることを知る。でも中国のイメージとは結びつかないのであるがいいところだ。この後水分の補給はもっぱらスイカで取ることになった。

 途中で探していた格好の建設現場に出くわした。入母屋をふたつつなぎ合わせたデザインの典型的なタイ族の高床式住居である。造り方は現在の我々の視点から見るといたって素朴なもので写真から解るとおり、外観の骨組みから造作のあり方が見通せるであろう。基礎は土中に埋めた石でその上に2階までの通し柱を立てる。梁は貫工法で柱と固定。小屋組は束立て方式である。後はたる木で屋根を構成し瓦をのせる桟を回す。
 居住スペースは2階になるが床は厚めの板を並べて敷くだけである。材料はこの地域で産出する雲南松と呼んでいる堅い松の木を使う。柱は25p〜30p角の太いものが用いられておりこのサイズに見合った丸太を手斧で削りだしたものが使われていた。
 
デザイン的には永い歴史のなかで洗練されてきたのだろう、まったくムダのない完成された美しさを醸し出している。
 
施工していた大工さんは「ここまで建設するのに10日間。延べ人工数は12人工かかった。あと4日で完成するからまた見においで」といってくれた。日本で生産性の問題が話題になっている折からか、つい施工手間などを聞いてしまった。それにしても14日間、半月で家ができてしまうのだ。ちなみに建設費は1万元というから14万円である。


 タイ族の暮らしぶりなどについては後に触れるとして、今回の旅の楽しみのひとつであった熱帯植物園に行くことにしよう。

西双版納は“植物の王国”である
 この植物園の正式な名前は中国科学院西双版納熱帯植物園といい、面積が900ヘクタール、約3000種の熱帯植物が生育している大規模なものである。園内には研究所、研究者の宿舎がありいろいろな国からの研究者が訪れている。また、我々のような観光者が宿泊する招待所が3ヵ所も設置されている。木や花に興味のある人にとっては何日いても飽きることのないところだ。
 雲南省は“植物と動物の王国”といわれており、特に西双版納は熱帯の植物、動物、昆虫がたくさん生息している。今では自然保護区に指定されているところ以外は開拓されたり焼き畑農業により禿げ山になっているが、かつての原生林は熱帯樹木が鬱蒼と茂ったジャングルであった。数少なくなった原生林にはまだ野生の象や虎が棲んでいるという。「数年前に上海のカメラマンが野生象を撮影しようと原生林に分け入って、運よく野生象を発見したがあまりにも近づきすぎて踏み殺されてしまう事件がありました」と陳波さんはいう。
 植物園で珍しいランの花やトロピカルフルーツが実っている木もいいが、私にはぜひ見ておきたい木があった。それは写真でしか見たことがなかった板根を持つ巨木である。その巨木は招待所から少し離れた絶滅の恐れのある植物の保護区にあるというのでその保護区の入口まで車で行き、そこから先は歩きだ。
 細い道づたいに森のなかに入っていくとすぐに昼なを暗いジャングルという様相を呈しはじめ、地表にはシダ系の植物がびっしりと繁茂し、上はなんという木であろうかとにかく大木にツタがからまり空を覆い隠してしまっている。いくら板根が見たいといっても何となく不気味で一人では来れないという気がする。ここは原生林をそのまま保存しているエリアのようだ。こんな所なら野生の象や虎がいても不思議はないだろう。
 大木の姿はしているが幹にあたる部分がすっぽりと空洞になっている薄気味悪い植物は何だろう。陳波さんによると“締め殺しの木”で、大木に寄生し幹の回りに寄生根を張りめぐらすように成長させ、ついには大木を窒息死させてしまう。そうして窒息した大木が腐敗してなくなると、いま目の前にしているような姿になるという。植物の世界にもイヤな奴がいるものだ。

 とはいえ、このイヤな奴が他の植物を絶滅に追いやっているわけではなくこれはこれでどこかで共存、共生しているのだろう。そうなるとやはり人間かいちばん罪深いことになるか、などと考えつつ40分ほど歩いてやっと
目指す板根の巨木に出合うことができた。
 とにかくでかいというのが第一印象である。板根のまわりをゆっくりと一周し、サメの背びれのような根に手をそえて、巨木からのメッセージとか霊でも伝わってくるのではないかと瞑ってみた。思い入れていたわりにしてはなにも伝わってこない。
 本物に接することができてそれなりに感動はしているのであるが、写真で見ていたものを確認しただけにすぎない虚しさもないわけではない。つまるところ予備知識をどこで仕込むかというのは難しい問題だ。
 最初に感激したり驚いた後で、そのことに対する勉強する方が旅を楽しくするし身に付くことも多い。そういう意味では“締め殺しの木”は驚きであった。板根に関して、いま私が目の前にしている巨木は四数木という名称であり、このほかに団花樹、番龍眼といった木も巨木となり板根をもっていることを知識と知っているが、 “締め殺しの木”についてはなにも知らない。

各民族によって異なる暮らしぶり
 我々は中心都市の景洪を避けるようにして、なるべく田舎の村々を訪れようということで瀾滄江(メコン川)のほとりのカンランパ、ミャンマーに向かう公路沿いにあるモンハイ、モンフン国境の村ダーロの賓館に宿を取り、景洪には西双版納を離れる最後の日しか泊まらなかった。
 少数民族通のM氏が付いているので心強く実に多くの村を訪ね歩いた。多くの場合どの民族も住居は高床式を取り入れているが、その暮らしぶりは各民族によってかなり違っている。また、貧富の差によってもおのずと住居形態、生活ぶりは変わってくる。さらに近代化とともに漢民族の影響も都市部から田舎へと徐々に浸透しつつある。こうしたなかで私は建物を中心に村を見て回ったつもりであるが、結局はそこに暮らす人達の暮らしや文化を知ることにほかならない。

 カンランパは小乗仏教のお寺があるため観光客が多い村である。そのお寺近くのタイ族の村は比較的豊かな村でたたずまいもどことなく落ちついている。日差しが強く太い太陽光線が束になって頭上に落ちてくるようだ。村人は農作業にでているのか昼寝でもしているのか人影がない。いつもならすぐに元気な子供達の歓迎を受けるのであるがそれもなく、蝉の鳴き声だけが太い太陽光線を揺るがせている。つげ義春のマンガのひとこまにこんな光景があったような気がしてならない。
 やっとある一件の家にあげてもらうことになった。2人の中年女性がベランダで内職をしていた。もうすぐ西双版納最大の年中行事「水かけ祭り」が近づいていおり、その観光みやげ用に孔雀の羽で団扇を作っている。我々は暑さで疲れ切っていたため椅子に腰かけるだけで極楽だ。「孔雀の羽はいまではインドから持ってきたものなんです」「祭りの仕度は済みましたか」「祭りは子供の時ほど楽しいと思わなくなりましたよ」。とりとめのない世間話をしていても大きな屋根で直射日光を遮り風が抜けていくのでとても涼しい。ここで昼寝をしたかった。できればそのまま一晩泊めてもらいたかった。たぶん頼めば願いを聞いてくれるだろうが、お茶の礼をいって再見(ツァイチェエン)した。ここの村は観光地であるため中国語が十分通じる。それにしても“さよなら”は“再見”であるがもうこの人達に再び会うことはない。

 
モンハイに近いハニ族村では両親、夫婦、子供2人、兄弟二人の8人家族の生活ぶりをみせてもらったが、家の間取りは完全に男と女の居住スペースが分かれており、女が男のスペースに入ることは許されないという。食事も寝るときも別々である。さらに、階段も2ヵ所設置され使い分けされているほどの徹底ぶりだ。それでは夫婦に子供ができるのが不思議になるが、母屋の母房から少し離れたところに子房があり、ここで睦言が交わされる。
 子房も高床式で穀物を貯蔵しておく倉のように思えたがその両方に使われているのだろう。この家はテレビを持っているがそれは男側のスペースにデーンと設置されていた。それでも最近では徐々に古い習慣が廃れつつあるといっていた。
 この村には電気がきているが、ここからそれほど離れていない阿克(アク)人の村は皮肉なことに高圧線の鉄塔が村に立っているにもかかわらず、電気が引かれていなかった。アク人ということで族になっていないのは少数民族として認められていないことのようだ。この村はそうとう貧しい村で瓦葺きの家は少なく茅葺きがほとんどであった。また、中国語はほとんど通じなかった。

ダーロの大規模な自由市場
 村々を訪ねながらこれ以上先には行けない国境の村、打洛(ダーロ)までやって来た。隣はミャンマーであるが厳重な警備がされているわけでもなく自動車道路にだけ警備兵が二〜三人いる程度でほかに何もそれらしきものはない。この国境のすぐそばに前日オープンしたばかりの賓館に泊まることになった。新築されたばかりということでどこもピカピカで気持ちがいい。服務員もきちっとした制服を着て都会の飯店並の対応である。だが、蛇口から水はでないし夜は停電になった。
 ダーロの中心からやや離れた国境沿いにこの地域にあっては不釣り合いなほどリッパな賓館が建設されたのは冒頭に触れた、ミャンマー、タイとの交易拡大を睨んでのことなのである。私は昆明からこの打洛までハイウエー構想の道を辿ったことになる。周辺はインフラ整備の工事が盛んに進められており、数年後には一変した風景を形成しているに違いない。
 陳波さんが国境まで行ってみましょうというので、村人達が使っている細い道を行くとお土産屋が数件建っている広場に「国境」と書かれたコンクリートの束があるだけだ。人々は自由に国境線をまたいで行き来していた。国境らしさを見つけるとすれば、お土産屋に売っているポルノトランプとミャンマー人が胴元で客を呼び込んでいるサイコロ賭博くらいなものである。

 それよりも興味深かったのは打洛の自由市場のにぎわいであった。途中のモンフンの市も大きかったがこちらの方が規模的にも集まってくる少数民族の数にしても数段大きい。M氏は積極的にシャッターを切っていた。私は紫色の餅米をお土産に買って返ることにしていたので探していたら、陳波さんが景洪の市場にもあるので後にした方がよいといい、景洪で2キロほどプレゼントしてくれた。
 独自の言葉と文化を持ち伝統工法の高床式住居で暮らしてきたタイ族をはじめとした少数民族の生活に近代化の波が押し寄せてきている。これは流れに逆らえない時流というものであろう。しかし、時流にも乗れず孤立化して取り残されてしまうのではないかという村もある。また、原生林は保護区を除いてどんどん消滅し、経済性のあるゴムの木の植林が進められ、この先高床式住宅居を建築するための雲南松やクリも貴重なものになっていくだろう。そうなると民族村でしかそうした建物は見られなくなるかもしれない。別に冷やすわけでもない畑から採れたばかりのスイカの旨さが解りかけた頃、そんなことを思いながら西双版納を後にした。

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